静かなる情熱ーエミリ・ディキンスン

08 19, 2017
なんだか最近旅日記が続いているので(そして今も18きっぷ旅の真っ最中で、愛知県の豊橋にいるという・・・現在なおやんとは別行動中で、一人でカフェにいるところ)久々に他のことを書くことにする。

先日『静かなる情熱ーエミリ・ディキンスン』を観に行った。神保町岩波ホール。

生前わずか10篇の詩を発表し、無名のまま生涯を終え、没後発見された1800篇近い作品により“アメリカ文学史上の奇跡”と讃えられる女性詩人エミリ・ディキンスン。
全世界より熱狂的なファンを持つディキンスンの生涯を、20篇近い詩を織り交ぜ描く伝記的作品。
(公式サイトより)

エミリ・ディキンスンのことは全然知らなかったけど、彼女のような「無名のまま生涯を終えた芸術家、詩人、作家」の人生にはものすごく興味があるので(ゴッホとか宮沢賢治とか・・・本人が死んでから作品が高く評価されるって、なんだか複雑・・・)ワクワクしながら観に行った。

題名には「静かなる情熱」とあるけど、少なくともこの映画の中のエミリは、そんなに「静か」ではなかった。結構、主張していた。

(以下、ネタバレあり)

女学校時代、厳格なキリスト教への信仰が強要される中、他の生徒たちが素直に従うのにエミリだけは頑として抵抗したり。牧師との祈りの時にエミリだけひざまずかなかったり。信仰に従うことは安全だけれど、でも、わたしの魂はわたしのもの、と言えるエミリがなんだか眩しかった。

その時代の大多数の意見や常識に賛成すれば「正常」、抵抗すれば「異質」、と見られるのは今でもそうだけれど、このエミリの時代は特にそれが強かったのかもしれない。キリスト教を信仰するのが当たり前、女性の仕事は男性に劣る、とか、そういう「常識」に大多数の人は疑問を持たずに縛られるわけだけど、エミリ・ディキンスンは違った。牧師さまのお祈りの時間にひざまずく、という「当たり前のこと」にも疑問を持つ。

映画の中で、エミリに信仰心が足りないことを父親がものすごく怒るシーンがあるんだけど、その場面を見て、
「無意識の中で縛られている人は、その縛りを、自分以外の人にも強要するのだな・・・」
と思った。

同じ信仰(常識、価値観)でも、「信仰に縛られる」のと、「信仰で自由になる」のとでは、多分全然違う。前者は他人にも強要しがちだけど、後者の場合は他人がどうあれ、他人のありのままを尊重できる気がする。
ってことは、他人が自分の信仰(考え方とか価値観とか)を否定して腹がたつ場合は前者、他人が否定しようがなんだろうが、それすらも受け入れられるのは後者・・・って感じかな。わからないけど・・・

・・・と、詩とはまた別のところでもいろいろ感じたこの映画。

映画の中には彼女の詩がたくさん出てきたんだけど、どれも思索的で、どこか哲学的・・・そして実は、彼女が一番深く、キリスト教の真髄がわかっていた人なのではないかと感じた。真髄まで行っちゃうと、もう何教とか関係なくなるかもしれないけど。

しかしストーリー後半はエミリの辛い面が浮き彫りにされ、病や劣等感に苦しむ姿がこれでもか、これでもか、と出てくるので、ちょっと苦しかった。
あと、エミリ役を『Sex and the City』のミランダ役でおなじみのシンシア・ニクソンがやっているもんだから、エミリがキツい皮肉を言うシーンなんかは、もう、ミランダそのものっていうか・・・エミリを通してミランダが見えてしまって、ちょっと脳が混乱した。『Sex and the City』、DVDを持っているくらい好きなので。

この映画をきっかけに、エミリ・ディキンスンの詩集を読んでみようと思った。今度図書館で借りる予定。

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さて、これを書いている今は13時20分。
これから豊橋から飯田線に乗ってきます。
なおやんとは飯田線の途中、平岡駅で合流する予定。

「逃げてもいいよ」Coccoライブ2日目

07 14, 2017
はい、今日も行ってきました、Coccoの20周年記念ライブ。

今日は「ニの巻」の方。
一昨日の「一の巻」の方は活動休止前のサポートメンバーが演奏していたけど、今日はメンバーがガラッと変わって、現在のツアーメンバーが中心。

よって、セットリストももちろん一日目とはかなり変わっていた。
そして何よりもびっくりしたのは、Cocco自身の印象も、一昨日のライブとは大きく大きく変わって見えたこと。
なんというか、今日の方がずっとずっと自由だった。
一昨日は「彼女はいったい何を降ろしているのだろう・・・(巫女的な意味で)」とちょくちょく思いながら聴いていたんだけど、今日は、最初からもう、「Cocco自身が歌っている」と感じた。すごく楽しそうで、幸せそうだった。

完全に私の主観だけれど、一昨日はやはり、初期からのファンたちの期待や思い(「Coccoの昔の曲に救われた」「昔の曲が好き」という思い)をどこか背負いつつ歌っているという感じがした。
でも、1日目の最後に『もくまおう』を歌ったことで、Coccoもみんなも自由になった気がする。

あなたにあげたいもの
独り集めて 背負った
わたしが欲しかったのは
あなたを守る力

変わっていく私を
笑ってもいい

変わらない想いを
覚えていて

(『もくまおう』より)

誰かに対して「変わらないでいてね」「ずっと昔のままでいてね」「ずっと、私が好きなあなたのままでいてね」と望むのはエゴで、みんな、変わっていくもんだよね。何もかも、諸行無常だ。

というわけで、この『もくまおう』から続く、今日の「ニの巻」は、もう最初からCoccoの歌声にもものすごい解放感があった。大人になり、自由になったCoccoの姿があった。
客層も、(ステージから客席を見たCoccoさん曰く)一昨日と比べたら若返っていたみたいだし、バンドメンバーも一昨日のベテラン勢とは対照的に、若く、勢いのある面々。一昨日はどこか「みんながCoccoを見守る」感じだったけど、今日は「Coccoがみんなを見守る」になっていた。

MCではこんなことを言っていた。

「15歳の時、まわりの大人たちに『逃げるな』って言われたけど、自分は『逃げてもいいよ』って言える大人になろうと思った。大事なのは、生きることだから。」

「もし周りの大人たちに『逃げるな』と言われ続けても、Coccoは『逃げていいよ』と言ってたなって、どうか覚えていてね」

・・・きっと、今悩んでいる若い人たちへのメッセージなんだろうけど、すみません、なぜか私も、ここで号泣してしまいました・・・(すでに散々逃げ済みだが)

そして、私の周りに座っていた男性陣(みんなおひとりさま)も、泣いていた・・・。私の右側の席にはロマンスグレーのナイスミドルのおじさまが座っていたんだけど、彼はすでに一曲目の『焼け野が原』から泣いていて、そしてMCでは我慢ならず号泣、という感じだった。おじさまの中のいったい何が、そんなに反応しているんだろうか・・・と、ちょっと気になった。


さらに、後半のMCでは、

「「歌に励まされた」「救われた」という言葉をもらったりするけど、こー(※Coccoさん、自分のことを「こー」と言います)の歌に力なんてなくて、もし力をもらったって思ってくれるなら、それは、それを受け取る力がある、あなたが凄いの。こーの力ではなく、みんなの力なの」

という意味合いのことを言っていた。はい、号泣。
そして、

「だからもう、誰かの為とか何かの為とか、そういう恩着せがましいことじゃなくて、こーはただ、歌えばいいんだよね。なんていうの?こーは他力本願で、みんなは自業自得?・・・なんか言葉の使い方、ちがうか?」

と言っていた。はい、笑いながらもまた号泣。隣のナイスミドルも号泣。

なんかもう、Coccoって嘘がないんだよね。嘘、つきたくてもつけないんだと思う。
アーティストの中には、「うまく表現しよう」「人とは違うことをやろう」「どういう風に表現すればいいだろうか・・・」と、意志を持って、何かを「表現しよう」とする人もいるけど(それはそれでいいと思う)、Coccoの場合は「何かを表現しよう」ではなく、ただ、「生きている」という感じ。その時の、そのまんまの自分を、みんなに見せてくれている。だから惹かれるんだよね・・・


いやーもう、これ以上ないほど素晴らしい武道館ライブだった。本当に。
ちょっとしばらくは、沖縄&Cocco沼にハマってしまいそう・・・

(しかし、明日は朝イチ新幹線で長野だよ・・・なんなんだろうか、このせわしない日々は)

「私たちはもう大丈夫」Coccoライブ

07 13, 2017
昨日は待ちに待ったCoccoの武道館ライブへ行ってきた。

『Cocco20周年Special Live at日本武道館2Days』。席はアリーナ席の14列目。
沖縄旅から一度家に帰って、バーっとシャワーを浴びて、サーターアンダギーを1個かっ喰らって、15分後には武道館目指して家を出た。

昨日のが「一の巻」。バンドメンバーは活動休止前の旧メンバーが中心。そして明日の「ニの巻」(もちろんこっちも行く)では、復帰後のツアーメンバーが中心ということで、セットリストもきっと、「一の巻」の方は活動休止前の曲が中心になるだろうなとは思っていたけど、思っていた以上に懐かしい曲ばかりで、なんかもう、聴いていてずっと涙が止まらなかった。なんでこんなに泣けるのかわからないけれど、とにかく勝手に、ポロポロ出てきちゃって・・・
そして、周りを見ると、泣いているのは私だけではなかった。かなりの人たちが涙を拭きながら聴いていた(ちなみに一人で来ている人が多く、私の周りは9割がおひとりさまだった。男性の一人客も結構いた)。

いや~Coccoさん、この20年間、あなたの歌を何度聴いてきたことか・・・

なおやん曰く、
「ゆかりこはよく、「♪見上げればー終わりを見たこともない~めまいを覚えるような青~」って歌と、あと「♪あなたに見せたいもの~ひとり集めて背負ったー」って歌を、口ずさんでいるよね」
とのこと。たしかによく部屋で歌っているかも。ちなみに前者は『ポロメリア』で、後者は『もくまおう』。どちらとも、沖縄の景色が思い浮かぶ曲。

Coccoとは同い年の私だけど、Coccoがデビューしてからのこの20年間、私も出会いあり別れあり、苦しみ、かなしみ、喜び、とにかくいろんなことがあったなぁと。しみじみしてしまった。

そしたらCoccoさん、それを見透かしたかのように、最後の曲の前のMCで、

「「もう死んでもいい」ってところから、「生きててよかった」というところまで、みんなよくきたね。私たちはもう、大丈夫だと思います」

と話した。ここでもう、涙腺大崩壊。(私のまわりのおひとりさまたちも同様)
そしてこのMCからの、『もくまおう』。まさかこの曲を最後に歌ってくれるなんて!もう・・・もうね・・・泣く、泣くよそりゃ・・・

Coccoに惹かれる人って、やはり何か、生き辛さを感じてきた人が多いんじゃなかろうか。それは子供の頃のことかもしれないし、思春期、大人になってから、もしかしたら今も・・・かもしれないけど、とにかくどこかのタイミングで、何か、人生に大きな違和感というか、絶望というか、そんなものを感じてきた人が多いのでは、と、勝手に思っている。

マツコ・デラックスもCoccoにどハマリしたと以前テレビで話していた。

マツコさんも、絶望したことがあるがゆえの、あの洞察力なんだろうな、と、テレビのコメントを聞いていて思う。そして花が綺麗。

それにしても、Coccoが歌う姿を生で見ると、何かを降ろしてきている(というか降りてきちゃっている)ように見えて、その姿はシャーマン的というか巫女的というかユタ的というか、とにかく、神憑り?口寄せ?・・・と、感じた。Coccoは「それ」をそのままに歌うから、降りてきたものがエゴ的なもの(怨み、絶望、悲しみ、怒り的な情念)だと、彼女自身が恐ろしいものに見えるし、それが神聖なもの(愛、祈り的な想い)だと、一転してマリア様みたいにも見える。本当に、不思議な人・・・

明日の「二の巻」も楽しみ。定時ダッシュで武道館、いっくぞー!

顔のない神様に顔を描いたら・・・

05 13, 2017
昨日、四国旅日記をやっとこさ書き終え、かなりホッとした・・・というのに、今日からまた四国へ行くという、なぞのループ現象が私の中で起こっているわけだけど、このままでは四国のことしか書かない人みたいになるので、なんとなく、読書記録を挟んでみる。

諸星大二郎先生の『無面目・太公望伝』を読んだ。

名作二本立て。
両作とも最高に面白かったんだけど、今回はとりあえず『無面目』の方だけ書いとく。(実は『太公望伝』の方が好きなんだけど、それまで書いたらものすごく長くなりそうなのでやめとく・・・)


注)ここから先、例によって遠慮なくネタバレしていきますので、知りたくない方は要注意!

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『無面目』のあらすじを簡単に書くと・・・

目鼻口耳のない偉大な神様=無面目(本名は「渾沌」)が、仙人たちから顔を描かれたことにより、初めて五感を味わい、人間界に興味を持ち、俗界に降りる。初めは「笑う」「食べる」ということすら知らなかった彼だが、次第に人間らしくなっていき、権力や暴力の刺激や、快楽、幸福、愛、恐怖をおぼえ、そして苦悩して死ぬ。

というもの。
『荘子』の中に出てくる「混沌」の話(漢文の授業でやったっけ?)と、中国古代史(漢の武帝時代が舞台)が絡められた、読みごたえたっぷりのストーリー。

崇高だった神が、だんだん人間界に染まっていき、顔つきがどんどん変わっていくのにはゾクゾクした。

そして、最期・・・
自分が何者だったのか思い出せず、混乱する主人公。
「目が・・・耳が・・・言葉も・・・匂い・・・手の感触・・・顔に受ける陽射しも・・・!
これらがすべて、私をとじこめている!」
と叫びながら顔をかきむしり、そして、死んでしまう。

もともとは『荘子』の中に出てくる
「目、鼻、耳、口の七孔が無い帝として、渾沌が登場する。南海の帝と北海の帝は、渾沌の恩に報いるため、渾沌の顔に七孔をあけたところ、渾沌は死んでしまった。」
(wikipediaより引用)
という話が元になっているわけだけど、これってものすごく、仏教的な話でもあるよね・・・と思った。唯識の世界というか。

この漫画を読んだのは昨日の夜なんだけど、ちょうど昨日の朝、電車の中でCoccoの『雲路の果て』を聴いていたわけで。

・・・この『雲路の果て』の歌詞が、モロに、『無面目』に繋がる。

『この目さえ光を知らなければ
見なくていいものがあったよ
からだがあなたを知らなければ
引きずる想い出もなかった』

(『雲路の果て』のサビの歌詞より)

・・・『認識』って、人間を幸せにもするし、不幸にもするよね・・・

この『認識』というものについてあれこれ考えるのが昔から好きで、そういったものを歌った歌や物語にどうにもこうにも惹かれるんだけど、今回読んだ『無面目』にも、そういう理由で惹かれるものがあった。三島由紀夫の『春の雪』を読んだ時と同じ感じ・・・

で、この『無面目』の後に、『太公望伝』が収録されているわけだけど、こちらの方はある意味『無面目』とは方向が真逆で、人が神へと昇華する(「神様」になるわけではなく、自分自身を見出す、という感じ)という話なので、通して読むと、なんとも感慨深い気持ちになるのです・・・すごいよ、諸星大二郎先生・・・


とか書いていたら、もう家を出る時間になってしまった。さぁ四国だ四国だ!
これから羽田空港に向かいますよスタコラサッサーー!

記憶の中の傷~『蕁麻の家』を読んで

03 29, 2017
母親からは見捨てられ、父親は無関心、祖母や親戚からは虐待され・・・という、辛く暗い子供時代を過ごしてきた著者が、その経験を自伝的小説として発表した『蕁麻の家』。萩原葉子 著。
若い頃から好きなことに突っ走り、たくさんの男性たちと恋愛をし、好きな人と暮らしては、次第にズレが生じ、男たちは他の女性の元へ行ってしまう・・・という破天荒な人生を送った宇野千代の回想録『私の文学的回想記』。

・・・という2冊を同時に図書館で借りたんだけど、なんというか、気質が見事に真逆な2冊だった。

萩原葉子は日本を代表する詩人・萩原朔太郎の娘なので、それだけでもう、さぞかし蝶よ花よと育てられたのだろう(森鴎外に溺愛された森茉莉のように)と、色眼鏡をかけて見てしまいそうになるけれど、実際には、悲惨な家庭内暴力の中で絶望的な少女時代を過ごしたらしい。
もう、これでもか!これでもか!というほど主人公に不幸が襲ってくるので、最初は読みながら「うへぇ・・・」となった。同情もするけれど、同時に、虐待してきた家族を恨み、小説という形で世間に暴露することである種の復讐を果たす、みたいな匂いがしなくもなく、なんだか重いわい・・・と思った。「私は不幸だった」というレッテルの渦に、自らズブズブーっと入り込んでいる感じ・・・

と、最初は思っていたけれど、読み進めるうちに、「あれ。もしかして著者は全部わかっていて書いているのかも。もう被害者意識は昇華して消えているけれど、あえて、少女時代の感覚に戻って書く、ということをしているのかな」と思い直した。

記憶って、自分がどこにフォーカスをあてて、どうトリミングして、どう意味付けをするかで、どんな風にでも変わっていく変幻自在なものだと思うけれど、著者はあえて、記憶の中の祖母や親戚たちを『救いようのない最悪な敵』『エゴのかたまり』『私を傷つけた加害者』と固定して見ることで、ひとつの小説作品として昇華させたのかな、と。

著者が祖母や親戚から虐待を受けていた、というのは事実らしいけれど、読みながら、祖母や親戚側の主張もぜひ聞いてみたいなと思った。
たぶん、著者をいじめ抜いてきた彼らも、まさか「はい、私たちは加害者です」なんて思っていないだろうし、むしろ、「私たちこそ被害者だ」「私たちだって傷ついているんだ」と思っていそう。
はたから見たら「どっからどう見ても加害者」だとしても、本人視点からしたら、みんな何かしらかの被害者だと思って生きているんじゃなかろうか・・・と。
実際、この本の中の祖母も、自分の息子(朔太郎=小説の中では洋之介)が出戻ってきて、"淫乱な女”(朔太郎の奥さんは若い男と出ていった)が産んだ孫の世話も自分がしなくてはならなくなり、「私こそ被害者だ」と思っている。だからこそ、主人公に辛く当たり、家から追い出そうとする(本人目線では正当な理由で)。

自分の受けた傷に頭が集中しているうちに、いつの間にか自分が相手を傷つける側になっている・・・被害者という名の加害者になっている・・・歴史ってそうやって繰り返しているような。

「わかってほしいのに、この人にはわかってもらえない」
と思っている時って、たぶん、自分も相手のことを本当の意味では理解していないんだろうけど、傷ついた時ってどうしても、真っ先に「わかってもらいたい(相手にこの苦しみをわからせたい)」と思っちゃう。「相手をわかろう」より、「相手にわからせよう」が先行してしまう。
けど、たぶん、本当の解決は、「わかってもらう」よりも「自分が、わかる(理解する)」の先にあるような。まぁ、凡夫な私には難しいことだけど・・・

著者がこの作品を書いた時、この悟りの境地に達していたのかどうかは謎だけれど、どちらにせよ、変に俯瞰的に書かずに、あくまでも『虐待を受けていた少女時代の視点』から書き、敵を徹底して「酷い人」「悪い人」「汚い人」として書いているのが、なんだかよかった。「私の苦しみは誰にもわかってもらえない」「もう死のう」と、とことんまで自分を悲劇の中に追い詰めたからこそ、最後の、とあるシーン(ネタバレになるから書かないけど、父親のとある仕草がキーになる)が、ものすごく輝いて見えた。
『自伝的』とはいえ小説だもの、道徳的で平等な視点なぞいらんわい。と、読み始めた時に感じたこととは真逆の感想を、読み終わった時に思ったのでした。


・・・で、もう一つの宇野千代さんの方も、自分の壮絶な人生を語っているわけだけど、こちらは逆にものすごく楽観的で、記憶って、自分の意味づけひとつでこんなにも印象が変わるのか・・・と、笑ってしまった。
今、他の宇野千代作品も読んでいるので、後日まとめて読書記録を書く予定。

『馬込文学地図』を読んだ

03 14, 2017
『馬込文学地図』近藤富枝 著。

大正の末期から昭和にかけて、荏原郡馬込周辺(大森~馬込付近)にたくさんの文士たちが移り住み、そこで濃い濃い人間関係が生まれ、恋愛、不倫、離婚・・・と様々なドラマが繰り広げられた、という話。

尾崎士郎、宇野千代、萩原朔太郎、室生犀星、北原白秋、川端康成・・・などなど、馬込文士村に集まった面々の名前を見ると、「おー!大物ばかり!」と、もうそれだけで崇敬の念が湧いてくるけれど、この本の中に描かれている彼らの生活模様を垣間見ると、「この人たち・・・変人なんじゃ」と思わずにはいられない。ある意味、ものすごく身近な気持ちになった。

萩原朔太郎が『妻を他の男に抱かせ、それをみて嫉妬することで沈滞した夫婦生活をもう一度新鮮なものにしたい』という願望を持っていた、というエピソード。
萩原朔太郎は馬込村に引っ越してきてすぐ、宇野千代に
「ぼくたちは倦怠期でね。もう一度夫婦間を緊張させるような愛の技巧を稲子(奥さん)に伝授してくださいませんか。谷崎さん(潤一郎)は友人の佐藤春夫に夫人をつきあわせて、夫婦の間に一種新鮮な気分を取り戻そうと考えているようですが、うまい手ですな」
と相談し、千代さんも「よっしゃ、私にまかせんさい!」と言わんばかりに、朔太郎の奥さんに自分の知り合いの青年たちを引きあわせちゃう。

朔太郎は奥さんのことを結婚当初から「不美人」「バカ」と下に見ていたわけだけど、宇野千代を介して奥さんにダンスを習わせたところ、みるみる上達し、若い男とキャッキャと踊り合うようになる。
服装もオシャレな洋装をするようになり、ヘアスタイルは断髪。見事なモガ(モダン・ガール)となった奥さんを、周りの若い男性が放っておくはずはなく・・・

初めは「新鮮さを取り戻すため」と、悪魔主義的な発想で奥さんを外に出した朔太郎だけど、次第に弱気になり、心に動揺が芽生え始めてきたところで、その命令にブレーキをかけようとしたけれど、時すでに遅し。奥さんは再び檻には戻らず・・・結局、二人は離婚することになる。

朔太郎は離婚はしたくなかったみたいだけど、これまた馬込住民であり、朔太郎の友人でもある室生犀星が『浮気な文明』という作品の中で萩原夫妻の冷戦状態を暴露するような形で世に発表してしまったもんだから、もう離婚は避けられなくなったと。

室生犀星は、朔太郎の奥さんをそそのかした宇野千代のことも目の敵にし(千代さんは頼まれたからやっただけなんだけど)、長い間二人は不仲だったそうな。文豪の世界もいろいろだな・・・

他にも、梶井基次郎が宇野千代に恋をし、それがきっかけになって尾崎&宇野千代夫妻が離婚へと向かった話や、妻子と愛人が二人もいながら、さらに別の女とかけおち事件を起こし、それでもどの愛人のこともキッパリとは手放すことができない広津和郎の話なんかも面白く読んだ。

それにしても、文豪たちの波瀾万丈な恋愛模様を見ていると、根っからの恋愛体質がそういう人生を創り出しているのか、それとも、「文豪としての自分」を保つために潜在的にネタ作りのためにそういう道を選んでいるのか、わからなくなる。
「貧乏、病気、失恋、このどれかがなければ小説は書けない」と謳われていただけあって、この時代の文豪たちは、見事に、このどれかがあるような・・・。このどれかがあるから文学が生まれるのか、文学を生むためにこれらの要因を自ら作り出しているのか、そこは微妙なところだけど。

しかし、いくら実在の人物の話だとしても、本当のところは誰にもわからないし、本人からしたら「いやいや、それは事実ではないよ」と言いたくなることもあるかもしれない。
でも、文豪だもの、そこは「私の人生もひとつのフィクションとして読んでもらえれば」くらいの寛容さがあるかもな。と思いながら、読んだ。
プロフィール

YUKA

Author:YUKA
都内在住・夫婦二人暮らし。
多趣味な夫にわりとついていく私のおぼえがき日記です。
旅日記は旅先からのリアルタイム更新を心がけています。
(しかし最近は家に帰ってからノロノロと更新することも増えました…)

リンクフリー。コメント大歓迎。
※本ブログのリンク集は都合により現在非表示にしています





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