顔のない神様に顔を描いたら・・・

05 13, 2017
昨日、四国旅日記をやっとこさ書き終え、かなりホッとした・・・というのに、今日からまた四国へ行くという、なぞのループ現象が私の中で起こっているわけだけど、このままでは四国のことしか書かない人みたいになるので、なんとなく、読書記録を挟んでみる。

諸星大二郎先生の『無面目・太公望伝』を読んだ。

名作二本立て。
両作とも最高に面白かったんだけど、今回はとりあえず『無面目』の方だけ書いとく。(実は『太公望伝』の方が好きなんだけど、それまで書いたらものすごく長くなりそうなのでやめとく・・・)


注)ここから先、例によって遠慮なくネタバレしていきますので、知りたくない方は要注意!

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『無面目』のあらすじを簡単に書くと・・・

目鼻口耳のない偉大な神様=無面目(本名は「渾沌」)が、仙人たちから顔を描かれたことにより、初めて五感を味わい、人間界に興味を持ち、俗界に降りる。初めは「笑う」「食べる」ということすら知らなかった彼だが、次第に人間らしくなっていき、権力や暴力の刺激や、快楽、幸福、愛、恐怖をおぼえ、そして苦悩して死ぬ。

というもの。
『荘子』の中に出てくる「混沌」の話(漢文の授業でやったっけ?)と、中国古代史(漢の武帝時代が舞台)が絡められた、読みごたえたっぷりのストーリー。

崇高だった神が、だんだん人間界に染まっていき、顔つきがどんどん変わっていくのにはゾクゾクした。

そして、最期・・・
自分が何者だったのか思い出せず、混乱する主人公。
「目が・・・耳が・・・言葉も・・・匂い・・・手の感触・・・顔に受ける陽射しも・・・!
これらがすべて、私をとじこめている!」
と叫びながら顔をかきむしり、そして、死んでしまう。

もともとは『荘子』の中に出てくる
「目、鼻、耳、口の七孔が無い帝として、渾沌が登場する。南海の帝と北海の帝は、渾沌の恩に報いるため、渾沌の顔に七孔をあけたところ、渾沌は死んでしまった。」
(wikipediaより引用)
という話が元になっているわけだけど、これってものすごく、仏教的な話でもあるよね・・・と思った。唯識の世界というか。

この漫画を読んだのは昨日の夜なんだけど、ちょうど昨日の朝、電車の中でCoccoの『雲路の果て』を聴いていたわけで。

・・・この『雲路の果て』の歌詞が、モロに、『無面目』に繋がる。

『この目さえ光を知らなければ
見なくていいものがあったよ
からだがあなたを知らなければ
引きずる想い出もなかった』

(『雲路の果て』のサビの歌詞より)

・・・『認識』って、人間を幸せにもするし、不幸にもするよね・・・

この『認識』というものについてあれこれ考えるのが昔から好きで、そういったものを歌った歌や物語にどうにもこうにも惹かれるんだけど、今回読んだ『無面目』にも、そういう理由で惹かれるものがあった。三島由紀夫の『春の雪』を読んだ時と同じ感じ・・・

で、この『無面目』の後に、『太公望伝』が収録されているわけだけど、こちらの方はある意味『無面目』とは方向が真逆で、人が神へと昇華する(「神様」になるわけではなく、自分自身を見出す、という感じ)という話なので、通して読むと、なんとも感慨深い気持ちになるのです・・・すごいよ、諸星大二郎先生・・・


とか書いていたら、もう家を出る時間になってしまった。さぁ四国だ四国だ!
これから羽田空港に向かいますよスタコラサッサーー!

記憶の中の傷~『蕁麻の家』を読んで

03 29, 2017
母親からは見捨てられ、父親は無関心、祖母や親戚からは虐待され・・・という、辛く暗い子供時代を過ごしてきた著者が、その経験を自伝的小説として発表した『蕁麻の家』。萩原葉子 著。
若い頃から好きなことに突っ走り、たくさんの男性たちと恋愛をし、好きな人と暮らしては、次第にズレが生じ、男たちは他の女性の元へ行ってしまう・・・という破天荒な人生を送った宇野千代の回想録『私の文学的回想記』。

・・・という2冊を同時に図書館で借りたんだけど、なんというか、気質が見事に真逆な2冊だった。

萩原葉子は日本を代表する詩人・萩原朔太郎の娘なので、それだけでもう、さぞかし蝶よ花よと育てられたのだろう(森鴎外に溺愛された森茉莉のように)と、色眼鏡をかけて見てしまいそうになるけれど、実際には、悲惨な家庭内暴力の中で絶望的な少女時代を過ごしたらしい。
もう、これでもか!これでもか!というほど主人公に不幸が襲ってくるので、最初は読みながら「うへぇ・・・」となった。同情もするけれど、同時に、虐待してきた家族を恨み、小説という形で世間に暴露することである種の復讐を果たす、みたいな匂いがしなくもなく、なんだか重いわい・・・と思った。「私は不幸だった」というレッテルの渦に、自らズブズブーっと入り込んでいる感じ・・・

と、最初は思っていたけれど、読み進めるうちに、「あれ。もしかして著者は全部わかっていて書いているのかも。もう被害者意識は昇華して消えているけれど、あえて、少女時代の感覚に戻って書く、ということをしているのかな」と思い直した。

記憶って、自分がどこにフォーカスをあてて、どうトリミングして、どう意味付けをするかで、どんな風にでも変わっていく変幻自在なものだと思うけれど、著者はあえて、記憶の中の祖母や親戚たちを『救いようのない最悪な敵』『エゴのかたまり』『私を傷つけた加害者』と固定して見ることで、ひとつの小説作品として昇華させたのかな、と。

著者が祖母や親戚から虐待を受けていた、というのは事実らしいけれど、読みながら、祖母や親戚側の主張もぜひ聞いてみたいなと思った。
たぶん、著者をいじめ抜いてきた彼らも、まさか「はい、私たちは加害者です」なんて思っていないだろうし、むしろ、「私たちこそ被害者だ」「私たちだって傷ついているんだ」と思っていそう。
はたから見たら「どっからどう見ても加害者」だとしても、本人視点からしたら、みんな何かしらかの被害者だと思って生きているんじゃなかろうか・・・と。
実際、この本の中の祖母も、自分の息子(朔太郎=小説の中では洋之介)が出戻ってきて、"淫乱な女”(朔太郎の奥さんは若い男と出ていった)が産んだ孫の世話も自分がしなくてはならなくなり、「私こそ被害者だ」と思っている。だからこそ、主人公に辛く当たり、家から追い出そうとする(本人目線では正当な理由で)。

自分の受けた傷に頭が集中しているうちに、いつの間にか自分が相手を傷つける側になっている・・・被害者という名の加害者になっている・・・歴史ってそうやって繰り返しているような。

「わかってほしいのに、この人にはわかってもらえない」
と思っている時って、たぶん、自分も相手のことを本当の意味では理解していないんだろうけど、傷ついた時ってどうしても、真っ先に「わかってもらいたい(相手にこの苦しみをわからせたい)」と思っちゃう。「相手をわかろう」より、「相手にわからせよう」が先行してしまう。
けど、たぶん、本当の解決は、「わかってもらう」よりも「自分が、わかる(理解する)」の先にあるような。まぁ、凡夫な私には難しいことだけど・・・

著者がこの作品を書いた時、この悟りの境地に達していたのかどうかは謎だけれど、どちらにせよ、変に俯瞰的に書かずに、あくまでも『虐待を受けていた少女時代の視点』から書き、敵を徹底して「酷い人」「悪い人」「汚い人」として書いているのが、なんだかよかった。「私の苦しみは誰にもわかってもらえない」「もう死のう」と、とことんまで自分を悲劇の中に追い詰めたからこそ、最後の、とあるシーン(ネタバレになるから書かないけど、父親のとある仕草がキーになる)が、ものすごく輝いて見えた。
『自伝的』とはいえ小説だもの、道徳的で平等な視点なぞいらんわい。と、読み始めた時に感じたこととは真逆の感想を、読み終わった時に思ったのでした。


・・・で、もう一つの宇野千代さんの方も、自分の壮絶な人生を語っているわけだけど、こちらは逆にものすごく楽観的で、記憶って、自分の意味づけひとつでこんなにも印象が変わるのか・・・と、笑ってしまった。
今、他の宇野千代作品も読んでいるので、後日まとめて読書記録を書く予定。

『馬込文学地図』を読んだ

03 14, 2017
『馬込文学地図』近藤富枝 著。

大正の末期から昭和にかけて、荏原郡馬込周辺(大森~馬込付近)にたくさんの文士たちが移り住み、そこで濃い濃い人間関係が生まれ、恋愛、不倫、離婚・・・と様々なドラマが繰り広げられた、という話。

尾崎士郎、宇野千代、萩原朔太郎、室生犀星、北原白秋、川端康成・・・などなど、馬込文士村に集まった面々の名前を見ると、「おー!大物ばかり!」と、もうそれだけで崇敬の念が湧いてくるけれど、この本の中に描かれている彼らの生活模様を垣間見ると、「この人たち・・・変人なんじゃ」と思わずにはいられない。ある意味、ものすごく身近な気持ちになった。

萩原朔太郎が『妻を他の男に抱かせ、それをみて嫉妬することで沈滞した夫婦生活をもう一度新鮮なものにしたい』という願望を持っていた、というエピソード。
萩原朔太郎は馬込村に引っ越してきてすぐ、宇野千代に
「ぼくたちは倦怠期でね。もう一度夫婦間を緊張させるような愛の技巧を稲子(奥さん)に伝授してくださいませんか。谷崎さん(潤一郎)は友人の佐藤春夫に夫人をつきあわせて、夫婦の間に一種新鮮な気分を取り戻そうと考えているようですが、うまい手ですな」
と相談し、千代さんも「よっしゃ、私にまかせんさい!」と言わんばかりに、朔太郎の奥さんに自分の知り合いの青年たちを引きあわせちゃう。

朔太郎は奥さんのことを結婚当初から「不美人」「バカ」と下に見ていたわけだけど、宇野千代を介して奥さんにダンスを習わせたところ、みるみる上達し、若い男とキャッキャと踊り合うようになる。
服装もオシャレな洋装をするようになり、ヘアスタイルは断髪。見事なモガ(モダン・ガール)となった奥さんを、周りの若い男性が放っておくはずはなく・・・

初めは「新鮮さを取り戻すため」と、悪魔主義的な発想で奥さんを外に出した朔太郎だけど、次第に弱気になり、心に動揺が芽生え始めてきたところで、その命令にブレーキをかけようとしたけれど、時すでに遅し。奥さんは再び檻には戻らず・・・結局、二人は離婚することになる。

朔太郎は離婚はしたくなかったみたいだけど、これまた馬込住民であり、朔太郎の友人でもある室生犀星が『浮気な文明』という作品の中で萩原夫妻の冷戦状態を暴露するような形で世に発表してしまったもんだから、もう離婚は避けられなくなったと。

室生犀星は、朔太郎の奥さんをそそのかした宇野千代のことも目の敵にし(千代さんは頼まれたからやっただけなんだけど)、長い間二人は不仲だったそうな。文豪の世界もいろいろだな・・・

他にも、梶井基次郎が宇野千代に恋をし、それがきっかけになって尾崎&宇野千代夫妻が離婚へと向かった話や、妻子と愛人が二人もいながら、さらに別の女とかけおち事件を起こし、それでもどの愛人のこともキッパリとは手放すことができない広津和郎の話なんかも面白く読んだ。

それにしても、文豪たちの波瀾万丈な恋愛模様を見ていると、根っからの恋愛体質がそういう人生を創り出しているのか、それとも、「文豪としての自分」を保つために潜在的にネタ作りのためにそういう道を選んでいるのか、わからなくなる。
「貧乏、病気、失恋、このどれかがなければ小説は書けない」と謳われていただけあって、この時代の文豪たちは、見事に、このどれかがあるような・・・。このどれかがあるから文学が生まれるのか、文学を生むためにこれらの要因を自ら作り出しているのか、そこは微妙なところだけど。

しかし、いくら実在の人物の話だとしても、本当のところは誰にもわからないし、本人からしたら「いやいや、それは事実ではないよ」と言いたくなることもあるかもしれない。
でも、文豪だもの、そこは「私の人生もひとつのフィクションとして読んでもらえれば」くらいの寛容さがあるかもな。と思いながら、読んだ。

『ヘッセの読書術』

12 10, 2016
明日から香港に行くので、今はお店を調べたり、食べたいものをピックアップしたりで、とにかくやんややんやと脳内は忙しいわけだけど、そんな中、また例によってヘッセの本を1冊読み終わったので、記録しとく。このヘッセ祭り、我ながらまだ飽きていない模様。

ヘッセの読書術
『ヘッセの読書術』。ヘルマン・ヘッセの読書をめぐる随想を集めたエッセイ集。

ページを開いてまず目に飛び込んでくるのが、この冒頭詩。

『書物

この世のどんな書物も
きみに幸せをもたらしてはくれない。
だが それはきみにひそかに
きみ自身に立ち返ることを教えてくれる。

そこには きみが必要とするすべてがある。
太陽も 星も 月も。
なぜなら きみが尋ねた光は
きみ自身の中に宿っているのだから。

きみがずっと探し求めた叡智は
いろいろな書物の中で
今 どの頁からも輝いている。
なぜなら今 それはきみのものだから。』


この、「全ては自分自身の中にある」というのは、ヘルマン・ヘッセの作品のテーマだと思うけど、どこか東洋思想的だと思ったら、やはり、古代インドの教えや古代中国の文学を熱心に読み込んだ、とこの本に書いてあった。
もちろんアジアの作品だけでなく、世界全国の古典文学をヘッセ先生はめちゃくちゃ読んでいて、この本の文中にも、あちこちの国の文豪の名前と作品名が次から次へと容赦なく出てくるもんだから、読んでいて頭がパンクした。で、その日本人には馴染みのない文豪の名前にはありがたいことに訳注が付いているんだけど、最初は都度都度訳注を見に後ろのページに飛んでいたけど、なんせ1章だけで62個も訳注があったので、手が疲れたのでやめた。

それにしても、ヘッセって、自他共に厳しい人な気がする。後期はそうでもないけど、初期のヘッセのエッセイからは、その厳しさをひしひしと感じる。
情報に流されやすい、物事を表面的にしか見ない、雑誌やテレビや新聞ばかり見ている、識者や専門家の意見を無批判に信じ込む、流行りに乗せられやすい、理解力がない、自主的に判断できない・・・みたいな人間には、特に、厳しい。
でも、その厳しさがなんだかクセになる・・・もっと・・・もっと言ってください!もっとそういうの、ください!!みたいな気持ちになる。


『日本のある若い同僚に』という章があって、それは、日本の読者(おそらく熱狂的&妄信的ヘッセファンで、その人自身も詩人を目指している、と思われる)から届いたファンレターに対する返事、という内容なんだけど、その中に
「詩人とは窓に過ぎない」
という表現があって、それがなんだかよかった。

『あなたに認識や覚醒をもたらしてくれた詩人は、光でもなく、たいまつをかざす者でもありません。せいぜいそこを通って光が読者にとどくことのできる一つの窓にすぎません。そして彼の役目は、英雄精神とか、高邁な意欲とか、理想的な計画などとはまったく何の関係もありません。
彼の役目はあくまでも窓であること、光の邪魔をしないこと、光に対して心を閉ざさないという点にあります。詩人が、比類なく崇高な男性に、人類の恩人になりたいという燃え立つような願望をもつならば、まさにこの願望が詩人の力を奪い、光が読者に届くのを妨げるということは、とてもよくありがちなことです。詩人を導き、そして駆り立てるものは、ことさらに謙虚さを目指して努力する態度でもあってはならず、光によせるひたむきな愛であり、現実に対する開かれた心であり、真なるものを透過させる心構えでなくてはなりません。』
(p210)


・・・以上、『ヘッセの読書術』の付箋ポイントでした。書いてスッキリ。これで心置きなく香港へ行ける。

まだヘッセ祭り『郷愁』

12 04, 2016
今、個人的に「ヘルマン・ヘッセの世界に浸る期間」なので、ちょっとしばらくはヘッセの読書記録が続くかもしれない。
・・・でも、今日夢中になっているものを明日も夢中になっているかどうかは我ながらわからない・・・明日にはもう他の世界に移行しているかもしれない・・・一瞬先の未来くらいいくらでも予測できるわ、と思い込む傲慢な心が、命取りになる、と、昔読んだ為替取引の本にも書いてあったし、とにかくほんと、わからないよ、明日のことは。

まぁそれはいいとして、『郷愁』。
郷愁(新潮文庫)
ヘッセ27歳の処女作にして出世作。

私があらすじを書くとダラダラ長くなる傾向があるので、Amazonからそのまま引用しとく。

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豊かな自然に囲まれて育ったペーターは故郷を離れ、文筆家を目指すため都会生活を始める。彼はそこで多くの人と出会い、多くの事を学ぶが、心の底では常に虚しさを感じていた。文明の腐敗に失望し、故郷に戻った彼を待っていたのは、シンプルな暮らしと新たな出会いだったが…。

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正直、前半は、翻訳が好みではないかも・・・と思いながら読んだ。今までヘッセは岩波文庫で読んでいて、そちらの方は最高にしっくりきていたんだけど、この度初めて新潮文庫で読んだら、むむー・・・という感じだった。相性が悪いのかなんなのか・・・でも、私はちょっと古臭い匂いがする訳の方が好みなので、岩波版が好きだけど、一般的には新潮文庫版の方が読みやすいかも。私も、後半には慣れてきた。

美しい自然の詩的な描写や、自己観察のさまざまな気づきが随所に出てくるわけだけど、私が一番心を掴まれたのは、身障者のボピーとの出会いのところ。
主人公のペーターは聖なるものに憧れ、聖者の生活を研究し、周りの人たちにも立派な聖人の話を聞かせてやったり、自分自身も聖なるものに近づいている、と思っていた。
なのに、友人の家にボピーが現れた途端、主人公ペーターは思う様動揺する。(ちなみにボピーの登場シーンでは「奇怪なゆがんだ姿の人間」「半分からだのきかない気の毒なからだ」「首が詰まった醜い二つの隆起の上に、大きながっちりした頭をのせていた」と描写されている)

友人の家で過ごす時間が穏やかで大好きだったのに、その家にボピーが現れた途端、友人の家に行くのが億劫になるペーター。

『また病人に会うことに子どものような恐怖をいだいた。どうしても彼に会い、握手をしなければならないのが、私にはいとわしかった。』(p206)

そんな中、友人とペーターは、自分一人では動けないボピーを家に残して、遠足に行く。

『私たちはみんな、自分をひとかどの親切な人間だと思いながら、かぎをかけて彼を閉じこめて、散歩に出かけてしまった!』

『だれひとり、身障者をひとりぼっちうちにおいて来たことを、恥じたり、胸をどきどきさせたりするものはなかった!むしろ、しばらくのあいだ彼から解放されたことを喜び、ぽかぽかとあたたかい澄んだ大気を、ほっとした気持ちで呼吸した。』
(p207)

・・・しかし、とつぜんそんな自分が恥ずかしくなる。

『私はまるで、曇りのない、欺きようのない鏡の前に立たされたような気持ちになった。私はそこに自分が、うそつきとして、ほら吹きとして、卑怯ものとして、二枚舌の男として映っているのを見た。』(p209)

そしてペーターは友人たちを残して、急いでボピーが待つ家へ向かう。もしかしたら火事が起きたかもしれない・・・そしたら自分で動けないボピーは床に倒れて苦しんでいるかもしれない・・・私がそばにいなければ!私が助けねば!という気持ちでいっぱいになりながら。

しかし、いざ家の前の階段に着くと、もちろん家は燃えてなどなく、それどころかボピーは部屋の中で一人歌を歌っていた。

『私もすぐに自分の立場のこっけいさと恥ずかしさを感じた。私はとつぜん不安にかられて、一時間も野道を走って帰り、かぎを持たずに台所の戸の前に立った。そのまま引き上げるか、しまっている二枚のドア越しに自分の善意を身障者に向かってどなるかするよりほか、しようがなかった。私は哀れな男を慰めよう、同情を示そう、退屈をまぎらしてやろう、という決心をもって階段に立っていた。ところが、その相手はなにも知らず、こしかけて歌っていた。』(p211)

・・・ボピーの歌をドア越しに聞き、ペーターは家に帰った。
それからは、ボピーと握手をすることに我慢など必要はなくなり、彼とどんどん仲良くなっていくペーター。ボピーからはたくさん学ぶことがあり、ペーターにとって一番豊かな生活が始まる。

『私たちの美しい短い生活を、塩からくし、台無しにする小さな悪徳の数々、たとえば、怒り、焦燥、不信、虚偽など・・・私たちを醜悪にする、いとわしい不潔な“うみ”がすべて、この人の場合は、長い徹底的な悩みによって、苦痛のもとに焼き清められていた。彼は賢者でも天使でもなかったが、知恵と献身とに満ちた人で、大きな恐ろしい苦悩と不自由とをなめているうちに、恥じることなく、自分を弱いものと感じ、神の手にゆだねることを学んだのである。』(p214)


・・・とまぁ、このボピーの項が一番惹きつけられたわけだけど、それにしてもヘッセの作品って、偽善や自己欺瞞や自己憐憫なんかのエゴの部分を、容赦無く、厳しくあぶり出していくなぁ・・・と。「自分の善意を身障者に向かってどなる」という表現とかね。

他にも、付箋を貼った箇所がいくつかあるので、ちょっとメモしとく。

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百間先生のネタ的借金生活

11 26, 2016
なんか今、胃がモヤモヤムカムカしている。ちょっと鳥肌も立っている。ヤバイ。今夜から北海道に行くのに。
とりあえず、飛行機は夕方の便なので、家を出るギリギリまで横になっておくことにする。このモヤモヤムカムカの原因となっている何者かが、早く溶けて私の中から出て行きますように・・・と祈っておこう。
ちなみになおやんは、今日も朝から鉄道系イベントをあちこちハシゴするみたいなので、なおやんとは夕方空港で直接待ち合わせすることにした。相変わらず忙しいなおやん。遊びで、忙しい。ビジネスマンじゃなくて、遊びマン。

というわけで、今も布団の中にいるんだけど、今私の枕元には、二人のおじさんの本が積まれている。
一人は、ヘルマン・ヘッセ。

ヘッセ祭り開催中なので、もうこうなったら全作読んでやる、という意気込み。私が一度こうなったら、もう誰にも止められない。飽きるまでとことんやる。そして飽きたら、何の躊躇もなくポイッ、と捨てるのが私の職人芸・・・

とまぁ、今はヘッセさんに入れ込んでいるわけだけど、でもやっぱり、私の本質としては、もう一人の、こちらのおじさんの方が好き・・・
第一阿房列車 (新潮文庫) 大貧帳―内田百けん集成〈5〉 ちくま文庫
内田百間(←「間」は正確には「門構えに月」の字)。
昨夜なんだか無性に内田百間を読みたくなり、本棚からこれらの本をゴソゴソ持ってきて寝る前にパラパラ読んだら、やっぱり面白かった。

特に好きなのが、百間先生の語る借金道。
貧乏で、あちこちから借りてきた借金があるというのに(借金を返すためにまた他から借金をする、ということを繰り返していた先生)その貧乏を完全にネタにしているあたり、「人生、何でもネタとして楽しんだもの勝ちだね」と思う。

しかし、こんなにたくさん本を出されているのに、本当に貧乏だったの?!と思うが、それが本当に貧乏だったらしい。

『沢山月給を貰っていた時分でも、今月は心配ないと思う事は一度もなかった』

『いつでも考えるのはお金は兵隊だと云う事である。自分の身辺周囲を見渡せば、人は銘銘その分に随った手兵を率い、各その所に立て拠って自分のしたいことをしている。私は後に従う一兵もなく孤城に落日を眺めるばかりである。』
(「新・大貧帳」より)

・・・でも、「阿房列車」を読むと、鉄道旅をしたいがために借金をしたりしているので、なんだか借金にも悲壮感がないというか・・・

『一番いけないのは、必要なお金を借りようとする事である。借りられなければ困るし、貸さなければ腹が立つ。
(中略)
そんなのに比べると、今回の旅費の借金は本筋である。こちらが思いつめていないから、先方も気がらくで、何となく貸してくれる気がするであろう。

ただ一ついけないのは、借りた金は返さなければならぬと云う事である。それを思うと面白くないけれど、今思い立った旅行に出られると云う楽しみは、まだ先の返すと云う憂鬱よりも感動の度が強い。』
(「阿房列車」より)

どんだけ旅行に行きたいんだこのおじさんは。
と、ツッコミたくなるけれど、でも、先生にお金を貸してくれた人がいたおかげで、阿房列車という名文が読めるわけだから、ある意味私もなんだか先生と一緒に借金をしたような、そんな気分になってくる。ありがとう、お金を貸してくれた人・・・


しかし、借金は、いずれ返さなければならない。当たり前だけど。
その返済が苦しくなると、こんなことを書く。

『生きているのは退儀である。しかし死ぬのは少少怖い。死んだ後の事はかまわないけれど、死ぬ時の様子が、どうも面白くない。妙な顔をしたり、変な声を出したりするのは感心しない。ただ、そこの所だけ通り越してしまえば、その後は、矢っ張り死んだ方がとくだと思う。とに角、小生はもういやになったのである。』(「新・大貧帳」より)

・・・同じことを繊細系文豪(太宰治とか芥川龍之介とか)が書いたら「大丈夫かしらこの人・・・」と思うかもしれないけど、百間先生だともう、笑いしかない。死ぬ時の顔を心配する余裕があるあたり・・・

やっぱり百間ワールド、最高だな。「真面目に不真面目」のプロ。
でも私はあえて、どこまでも真面目なヘッセワールドに戻るよ・・・ヘッセはヘッセで、共感する言葉がこれまた多いので、これから読むのが楽しみ。北海道にも持って行こう。
プロフィール

YUKA

Author:YUKA
都内在住・夫婦二人暮らし。
多趣味な夫にわりとついていく私のおぼえがき日記です。
旅日記は旅先からのリアルタイム更新を心がけています。
(しかし最近は家に帰ってからノロノロと更新することも増えました…)

リンクフリー。コメント大歓迎。
※本ブログのリンク集は都合により現在非表示にしています





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